何日か更新が滞ってしまいましたが、実はサイパン島と、隣のテニアン島に出掛けておりました。
といっても、バカンスではなく戦没者の慰霊祭でございます。
今は、リゾート色が強い南の島々ですが、先の大戦時は日米の激闘が繰り広げられた戦地でありました。
歴史・・・
ドイツ領だった南洋諸島は、第一次世界大戦終了後、ヴェルサイユ条約により日本が委任統治することになりました。
サイパン周辺の島々は、南洋開発公社という製糖会社が開発し、多くの日本人が入植、平和な暮らしが営まれておりました。
が、日本本土への爆撃を行いたい米軍にとって、
B-29爆撃機の航続距離から、サイパン・テニアンは絶対に欲しい島。
逆に日本から言えば「絶対国防圏」として重要な位置にあり、昭和19年 激しい戦闘が行われました。
「AUTO MARINE」というHPにその辺りが分かり易く書いてあります。
http://www.expressionjp.com/automarine/s-history-localism.htm
(以下引用)
サイパン・グアム・テニアン島はアメリカにとって日本本土への爆撃機往復を可能とできるためどうしても占領したい島であったため、日本本土を襲撃しながらこの島々の占領を企てていました。
既にサイパン・グアム・テニアンは戦争の勝敗を握る重要な場所となっていました。
1944年 アメリカ軍によるサイパン・グアム・テニアン島進出 日本軍陥落
この年の6月15日、アメリカ軍はとうとうサイパン島の南西部の海岸から島の上陸に成功しました。
南から北へじりじりと圧倒的な強さで日本軍を攻め入り、日本軍・民間人はそれに追われるように北へ北へと逃げました。ビーチや山中のいたるところで連日激戦が行われました。
日本本土も襲撃にあっているため援軍も来ず、サイパンは孤立した戦場となり日本軍は北へ逃げる以外選択の道はありませんでした。
サイパン島の最北部は80mもの切立った断崖です。
崖まで追い詰められた日本軍・民間人たちは「生きて虜因の辱めを受けず」と、自決の道を選び身を投げました。
苦しくもそこは母国日本に一番近い島の最北端でした。
みな水平線の向こうにあるであろう母国に向かい 「バンザイ!」 と叫びならが身を投げました。
アメリカ軍によるサイパン進出の約20日後、この年の7月9日には日本軍は陥落しました。
その断崖の名はプンタン・サバネタとラデラン・パナデロ。
現在「バンザイクリフ」「スーサイドクリフ(自決の崖)」という別名で知られ、今もなお多くの人たちが慰霊に訪れています。
米軍の死傷者14,000人、日本軍30,000、民間人15,000がサイパンの地に倒れたと言われています。
1945年 広島・長崎に原爆が投下される 第二次世界大戦終結
サイパン・グアム・テニアン島を占領したアメリカ軍はこの島々を拠点とし、一気に日本本土への攻撃を強化させて行きました。
爆撃機として使用されていたB-29はこの3島だけで最大600機以上にも及び、東京・名古屋・大阪・神戸と日本の主要都市への攻撃は日に日に激しくなりました。
そんな中、昭和20年5月中旬、特殊な動きを見せるB-29の極小編隊がホノルルを発ちテニアンに到着したことを日本軍はキャッチしました。
あまりに不気味な動きを見せるその編隊の目的を、日本軍は必死で調査しましたが全く解明できませんでした。
そのたった2~3機の編隊は、8月6日午前4:00過ぎにテニアン基地を発ち、硫黄島の米軍基地に対して 「われら目標に進行中」 という無線を発信して北進しました。
電波をキャッチした日本軍は目標の場所とその目的を解明するのに必死でした。
日本軍がその特殊編隊の目的と目標地点を知ったのは、編隊の中の一機「エノラ・ゲイ」号が8:15分広島市上空に原爆を投下した約24時間後、8月7日の早朝のことでした。
日本の敗北をきっかけに第二次世界大戦は幕を閉じました。(引用終わり)
テニアン ハゴイ空軍基地
広島への原爆 積荷場跡
長崎への原爆 積荷場跡
戦闘の模様はこちらのHPにも詳しく記されております。
「戦史 中部太平洋陸軍作戦」
サイパンでの戦い
http://yokohama.cool.ne.jp/esearch/sensi1/sensi-tyubu22.html
テニアンでの戦い
http://yokohama.cool.ne.jp/esearch/sensi1/sensi-tyubu24.html
これらの島々では、本当にたくさんの兵士・民間人が亡くなられております。
わけても、テニアンには陸軍松本50連隊が駐屯しておりました。
長野県神道青年会では、テニアン島カロリナス台地の 「スーサイドクリフ」 にて毎年 慰霊祭を齋行しております。
テニアンは珊瑚礁の島で、水が殆どありません。
亡くなった人々が 「水」 を欲しがっていたという話を聞き、慰霊祭場には 「献水鉢」 を設けてあります。
日本からそれぞれ持ち寄った水を参列者全員でお供えいたしました。
また今回は、斎場に立つ 「碑文」 に刻まれた文書の朗読を妻が行わせていただきました。
「この大空と大海原に馳せる思い」
~日本からこの地を訪れたすべての人々へ
あなたの純真な心に純粋に美しく映えるこの見渡す限りの大空と大海原が、ひととき悲しみに曇り涙に霞んだ真実を忘れること無く後世に伝えて欲しいと思います。
大東亜戦争当時、日本を遠く離れこの島を含め南洋の多くの島々で戦歿された軍人兵士『英霊』や、運命を共にされた当時の在留邦人の多くは、国家防衛と国民平安の為に尽くされ、祖国の永続と民族の永遠とをひたすら願い、尊い命を捧げられました
激戦の果てに行き場を失い日本民族の誇りに懸けて、この断崖から紺碧の海に我が子と共に身を投げることなど、我々には想像もし難い事実であります
平和な次代を残す為に日本人としての生き方を示し遺された先人達に感謝の心と敬慕の念を以ってお報いする為、慰霊の誠を捧げていただければと存じます
散華された 『英霊』 と戦没者の御霊は、祖国に帰り靖國神社にお祀りされております
そして幸せに元気よく今の世を生きている『あなた』を見守っていて下さいます
帰国後は、この島のこの場所であなたが感じた見渡す限りの大空と大海原の美しさを、靖國に鎮まる御霊にあなたらしく伝えていただければと願います
本当に蒼い空と蒼い海。
ここが 「戦争の島」 だったなんて信じられない思いがいたしますが、事実は事実。
我が家の隣家から出征された方も、ここで亡くなられております。
散華された人々の御霊が安らかならんことを、心よりお祈りいたしました。
今回は家族で参加し、子供達にもサイパン・テニアンの戦跡を見せて参りました。
今は理解できないかも知れませんが、やがて将来、戦争というものを考えるきっかけになればと考えております。
サイパンのスーサイドクリフ(自決の崖)からバンザイクリフを望む

たくさんの慰霊碑があります

サイパンで日本軍が最後まで抵抗した 通称 「地獄谷」
テニアン島への米軍が上陸したチェル・ビーチに遺る、日本軍のトーチカ
銃弾の跡が生々しく
テニアンの日本海軍司令部跡
テニアンのスーサイドクリフ
こちらにもたくさんの慰霊塔があります
平和なテニアンの夕日。
いろいろ考えさせられました。
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